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書ければ良いので

劇団柿喰う客 新作本公演2023『肉食獣』

 連日連夜のハードスケジュールにより心身共に悲鳴をあげていたけれど、今!とにかく骨太の演劇に触れなくては心が折れて死にそうでチケットを取りました。1枚のチケットがまるで生きるよすがのようにぴかぴかと輝いておりました。

 この日も前後に予定があり、立ち並ぶ劇場群を息せき抜け、スズナリの急勾配の階段をそろりと昇り、ギシギシと板軋むロビーを渡って滑り込んだ12月16日14時の回。通路にも臨時席を設けられる満員御礼です。いつか私も自分でパイプ椅子を運んでみたい。

 幕開けから射出され浴びせられる言葉の弾丸、弾丸、弾丸。一分の予断も油断も許されず、目から言葉を飲み込み続ける60分間(福沢諭吉『肉食之説』を読んでから観劇して本当によかった)。

 終演後、「中屋敷さんが『友』を描くとこうなるのか」と思いました。そこに存在する友情はメロウな激情ドラマティック……ではなく、ざらりと乾き、然して互いを同門の士として根底では信じ合っていたと推察される歌詠み6人のお話。観劇後の満足感。精神がとても整いました。夏さんに恋をしました。

 友人は生肉バージョン(衣装及び音響なし)を観たそうです。いいなあ……。配信の特典も最高でした。あのような特典映像を初めて観ました。最高。

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 中屋敷さんの戯曲に通底している演劇の虚実皮膜が好きです。理解を掴ませてくれない。面白い演劇にただ殴られる。あの瞬間の自分が最も欲してる舞台でした。ありがとうございました。

朗読劇『ours』

 
 命を奪った相手の人格を取り込んで生きることは、相手の人生を二重に奪うことにならないだろうか。
 
 尊厳を奪い、魂の殺人を重ねることにならないだろうか。と、危惧した。

 想像上の悲しみを語ることは欺瞞的行為にならないか。だって、知らないでしょう。命を奪った人たちの人生のこと。真人は何も。
 
 けれど、他者を理由に持ち出す非難の目が意味をなすことはないのだと知る。だって、今まさに苦しみながら魂の牢獄を歩き回る彼を観ているのは、遺族ではなく、私だけなのだから。


死はどこまでも現実的なものだと思う

 人の死に相対して、森の中に逃げ込むことを自分へ許してこなかった。偽りのない事実の刃で何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も心を刺して、刺して刺して、刺して、ようやく相手の痛みを考える資格を少しだけ得られる気がしていた。
 
 それが正しいことだと思っていたけれど、私も真人と同じことをしていたのかもしれない。私が綺麗な物語の中へ逃げ込んでしまったら、死んでしまった人がひとりぼっちになってしまうんじゃないか。想像力で感情をトレースすることは、死んでしまった人を死してなお消費していることに他ならないように思えてしまっていた。

 寄り添う気持ちか、罪悪感か、真人のスタートはどこにあったのかは分からない。

 真人がここへたどり着いた過程を何も知らない。反射的に切ったハンドルの感触も、目の前に広がる惨事も、スピーディーに進行する刑事裁判も、裏腹に停滞する自分の心も、実際の遺族感情も、何も知らない。猫を避けて起こした事故は世間感情としてはきっと同情されうるもので、充分に反省する態度を示したのなら、執行猶予がついて実刑は免れたのかもしれない。初犯だろうし、でも、死傷者の数が多いから、わからないけれど……。
 
 心の回復過程は螺旋階段だと精神医療の世界でよく言われている。けれど、真人は反対に螺旋を降りるように苦しみの中へ沈んでいっているように見えた。自らの意志がそこにあるのかも分からないまま、他人の人生を取り込んで生きる彼が行き着く底に、真人自身はいるのだろうか。
 
「ねぇ本当は誰なの」

 物語を鑑賞する中で二重にも三重にも意味を含む言葉が、終わりのない苦しみの中へ落ちていく彼の蜘蛛の糸となるか、それともエンドマークとなるのか。

 果てのない泥濘に沈んでいくような彼の人生を引きずって、役者は退場する。その先を追いかける術を観客はまだ知らない。


橋本真一さん

 彼らの人生を己の中に生かし、地を這うように生きる彼を演じる人を見て、器のような人だと思った。これは空っぽとかそういうことではなく、魂の器の話。

 oursで幾人もの魂魄を器に降ろして演じる橋本真一さんの姿は、これまで命を削って多くの役の人生を生きてきた役者人生そのものみたいで、役者という一個の生命体になって立っているように見えた。透き通るように綺麗なのに、泥臭く苦しむ人。人間の本当を、その両面を見せることで体現する、そんな人だと思った。

 そして芝居で見せる動作の端々から、脚本に、衣装に、この作品に携わった人すべてに対するリスペクトを感じます。それはその魅力を最大限に活かし、伝えようとしてることが妥協のない表現一つ一つから伝わってくるから。きっと打ち合わせの段階で色々と議論を重ねられたのかもしれない。作品の一セクションとして役者の身体を捧げて生きる真一さんは本当に素敵だし、脚本のテキストに自分を埋め込んで、そこから命を吐き出して生きてる人だな……と改めて思いました。やっぱり私にとって、真一さんは世界で一番かっこいいきらきらのおほしさまです。顔を見せることが主になるであろうお芝居において、顔を見せないことで生まれてくる意味にズガーーーンとやられてめろめろになりました……世界一かっこいい

お衣装の話

 過去の作品も含めて、新さんのお衣装にはいわゆるモチーフ的な意味を通り越して、文脈を感じます。振り返る動作によってひらりと上がったチュールや軽い布地が落ちるまでの時間が、ある一点で時が止まってしまった物語において時間経過を生み出していて、そこに少しの心の安寧を頂いていました。浮き上がった布が落ちる過程で生まれることで<過去-現在>が生まれるんだなと……。空間を切り分け、空間を生み出し、時間の概念も作品に入れ込むことができる……。カラフルな世界から色が消えてしまったことを表すような白黒だけの衣装も、鮮烈な赤も、あべこべのベルトの色も、意味が込められている一方で、一つの衣装としても魅力があって。新さんのお衣装ってなんて素敵なんでしょうか。

最後に

 改めて、橋本真一さんと皆様がoursに注いだもの、創り届けて下さったことに感謝致します。各分野の皆様が培ってこられたものと真摯な想いが込められたこの創作が沢山の方に届きますように。

 40分間、oursの1人になれたようで、苦しくて楽しくて、何にも変え難い幸せな時間でした。

 別の形でもoursが上演されたらいいなあ。そうしたら、必ず観に行きます。

 でも、まずはこの作品が沢山の方に届きますように。「届け、届け」の気持ちが、本当のものだと信じてもらえるように書いた拙いことばがどこかへ届いていたら、こんなに嬉しいことはありません。

旭那由多くんと里塚賢汰さん

 AXIAという映画がある。ロックバンドGYROAXIAが現在の姿になるまでの前日譚で、ボーカル旭那由多が持つ音楽への衝動と渇望の理由が、幼少期に負った傷と克己のストーリーを通して描かれている。

里塚賢汰さん

 里塚賢汰という男がいる。GYROAXIAのリードギター担当、旭那由多の音楽を世界に知らしめんとする野望を持って生きている。

 彼は夫との不仲に泣く母に対して、中学1年生の時点であたたかさを伴わない形で哀れに思い、離婚が決まった中学3年生の際には別れた両親のどちらについて行くかを弟に選ばせている。自分はどっちだって良い、という態度付きで。

 これを冷淡ととるか、それとも自我が無いととるかは当時の彼と接したことがないので分からないけれど、とにかく賢汰はそういう人だった。

旭那由多くん

 前述のAXIAで登場した幼少期の旭那由多は音楽に目を輝かせる純粋無垢な子どもだった。音楽の神のような父親に捨てられるまでは。それからの彼は忍び寄る病に蝕まれながら、音楽(=父親)へ復讐せんとする炎で身と心を燃やして生きてきた。

不思議なふたりだと思う

 作中で賢汰は那由多に「俺がお前を必要としているんだ」と涙を滲ませて訴える。賢汰が人生で初めて、そして恐らくはその生涯でただ1人きり欲した相手は、強烈な見捨てられ経験を原体験として持っている人間だった。

 「俺が/お前を/必要としているんだ」。

 「俺がお前を必要としているんだ」という言葉の意味を映画の公開時から考え続けている。

 けして「(俺が最高の理解者で信奉者だから)お前には俺が必要だ」、ではない。見返りを求めてはいないけれど、自分の全存在を投げ打って目を逸らしがたい言葉を訴えかけてくる。こちらもそれ相応のものを返さずにはいられなくなるほどの重み。覚悟を差し出す相手に返すものがあるとすれば、それはこちらも心を開いて見せる正直さだったり、そこに心境を至らしめる誠実さなのだろう。これは、その、橋本真一さんが演じるからこそ生まれる事象であると思う。優しいところも似ているけれど、前述のとおり、スタンスのまるで違う相手の心を本気で向き合わせるものを自分から提示していくところも、賢汰さんと橋本さんはとても似ている(もしかしたら、演じる時間の経過と共に似ていっているのかもしれない)。

 一方が一方へかける想いが重いのに、2人だけの閉じた世界にならないのは、2人の共通目的が旭那由多の音楽で頂点を取ることに他ならないからで。那由多は音そのものみたいな存在だから、彼の存在を欲することと彼の音楽を欲することはほぼイコールに近い。濃い感情があるのに、破綻の香りが漂わず、いつも新しい風が通り抜けるような風通しのよさすらあるように思う。それはきっと、那由多が限界を超えるスピードで前を見て走り続けているから。それを追いかける賢汰は那由多の背中越しに彼の眼前にある世界を丸ごと見ているから。「その声が指す未来だけ」、いつもそれを目に認めていくことに忙しいからじゃないかな。賢汰さんの見ている世界はきっととても色付いて鮮やかで輝いていて、他のことに心をやる暇がないのだと思う。

 トップスピードで走り続けている2人の周りに風が絶えない。

 不思議なふたりだと思う。本当に。

BUSHIROAD ROCK FESTIVAL 2023

BUSHIROAD ROCK FESTIVAL 2023(2023年5月27日/富士急ハイランド・コニファーフォレスト)


 

 始まりは2021年から。

・・・

 2021年2月に開催予定だったBUSHIROAD ROCK FESTIVAL(以下、ブシロックフェスと表記する)が2年以上の時を経て、いよいよ開催されるということで行ってきた。「行ってきた」と気軽に書いているけれど、5月の筆者は『「僕のヒーローアカデミア」The “Ultra” Stage 最高のヒーロー』という舞台作品の東京・兵庫・東京凱旋公演に足を逐一運び、日本国民の三大義務の一つ・勤労の義務のもと舞台がない日は仕事をしているので、この時点で1ヶ月間休んでいない。

 この状態で山梨県っていうか富士山の麓で5時間のスタンディング野外ライブなんて大丈夫かしら……なんかお日柄もいいみたいで……と思っていたが意外となんとかなったし、この記事を書いてる今は1ヶ月の無理が祟って過労で伏しているので、実際はなんとかなっていないのかもしれないけれど、現場がない時にしか体調を崩すタイミングがないので何も問題はないのである。文章が怪しくなってきたので話を進めたい。

 コニファーフォレストに来るのはこれで2度目で、1度目は2021年5月30日に開催された「ARGONAVIS LIVE 2021 JUNCTION A-G」で訪れたもの。この2年余のGYROAXIAの活動はとてもめざましく濃密だったので、懐かしい気持ちよりもつい1年ほど前のことのように感じる気持ちの方が大きかった。自分の中に残っていた、富士山から降りてくる涼しい風が頬を撫でる感覚が少しずつ薄れてきたこのタイミングで、違う種類の興行とはいえまたGYROAXIAの音を聴くために同じ季節に同じ地を訪れていることに不思議な感覚を覚える。

 コニファーフォレストは何も変わっていなくて、高く広がる空も変わっていなくて。ただあの時と明確に違ったのは、客席の景色と、場数も経験も積み重ねてきたGYROAXIAの「ロックバンドとしての面差し」と「観客と一緒にライブを心から楽しむ一種の余裕」だったと思う。

 客席の景色については、1席空け→全席の座席配置に戻ったこと、声出しが解禁になったことなど情勢に対する措置が緩和されたことで生まれた変化があった。そしてJUNCTION A-Gは作品ファンに向けたライブであったが、ブシロックフェスはフェスティバルなので、参加するアーティストのファンがそれぞれ参加している。共演する女性アーティスト達ファンの男性陣が客席の9割を占めていたんじゃないかと思う景色。ひょっとすると、ほとんどの人がGYROAXIAの音楽を初めて聴く層だったのかもしれない。Animelo Summer Live の客席にいる時と似たような感覚だった。

 GYROAXIAの「ロックバンドとしての面差し」と「観客と一緒にライブを心から楽しむ一種の余裕」。アウェイともいえるステージにおいて、観客の声を受け止め応えるように楽しんで演奏する彼らの姿。バンドとして経験値を積み重ねてきたからこその「面構え」を感じたし、彼らの音楽に全身で呼応し、コールと歓声で噛み付くように対峙する客席の頼もしさが嬉しかった。男性の声や突き上げる拳のパワーはやっぱりすごい。

 GYROAXIAにとっては2019年のお披露目以来の声出しライブである。彼らを知る人がその場にほとんどいないなかスタートしたサプライズのお披露目から始まり、似た条件の中において、今度はバンドとして地力を蓄え、演りたい表現が体現可能になった彼らの音に応える「声」がパワー溢れるものであれたことが嬉しかった。最大出力のパワーで迎撃してくれた方々に本当に感謝を伝えたい。ペンライトで真っ赤に染まる客席をまた見たいと願っていたので、思いがけず見ることができて本当に嬉しかった。ブシロックフェスでなければ成立しなかった光景だったかもしれない。


終演後に喜びの声を届けてくれた小笠原仁さん。

 橋本真一さん(GYROAXIAリードギター担当。筆者のめっちゃ大好きな人)もFC限定配信でその喜びや得られたパワーを語ってくれた。即時的に伝わってその場で気持ちを交換できるのはやっぱりライブの醍醐味ですね。
興奮のセットリストは以下のとおり

NEW ERA
Freestyle
GETTING HIGH
DANCING PARANOIA
MANIFESTO
IGNITION
 Freestyleツアーでも使用されていたイントロから始まり、最高の「Greatest showの幕開け」を予感させるド頭のNEW ERAで会場から湧き上がるコール。この曲は冒頭でも書いたJUNCTION A-Gと密接な関係にある。コニファーフォレスト生まれの楽曲なのである。


 TAKEさんありがとうございます。
 そしてまさに今のGYROAXIAを言い表すような曲であるFreestyleでも、コールと歓声はうねりを上げて音の渦へ巻き込まれていく。次いでGETTING HIGH、DANCING PARANOIAと GYROAXIAの伝家の宝刀たるダンスチューンが続く。3年を経てGETTING HIGHで「HEY!」と初めて叫べた感動と衝動に浸る暇もなく、畳み掛けてくるDANCING PARANOIABPMにこちらの拍動も振り切れさせられてしまいそうだった。その上に横たわる真一さんのギソロとそば走る小笠原さんのスクリームが心地良い。小笠原さんのMCを挟み、ここで登場するのが親の声より聴いたこれぞGYROAXIAの原点・MANIFESTO。ここでも「HEY!」と叫べた。HEY!って叫べるものなんだね……。GYROAXIA式カルチャーショック。MANIFESTOをさまざな地で聴いているけれど「曲も生き物なんだな」と目が開けた気持ちだった。二次元のGYROAXIAも、リアルバンドのGYROAXIAも、生まれて演奏される楽曲も生きている。劇場版アルゴナビスAXIAの記事で「血が通ったGYROAXIA」の姿を見たと書いたけれど、今回のMANIFESTOにもそれを感じた。観客のパワーを喰らい、どこまでも昇っていくMANIFESTOの血肉を感じた。

 暮れなずむ空とともに流れ始めるIGNITIONのイントロダクション。今のGYROAXIAが歌い奏でるからこそ新しい意味が生まれる。2020年9月12日に開催された『GYROAXIA ONLINE LIVE -IGNITION-』で終演後のメンバーの皆さんが全員一致で抱いた悔しい想いとそこから研鑽を重ねた軌跡に想いを馳せながら、スモークと夕陽の光の中、袖に去り行くGYROAXIAを見送った。今日のライブが観客の心に炎を点火し、もっともっとGYROAXIAというバンドを好きになってくれる人が増えたらいい。わたしは真一さんがめちゃくちゃ好きだし、GYROAXIAもめちゃくちゃ好きだ。後日購入した配信映像を見てべしょべしょに泣きながら、GYROAXIAを好きになる人がもっともっと増えてほしいと思った。


 メディアミックスコンテンツの観点から今回印象的だった小笠原さんのアプローチ。筆者は新しいものを登場させるときの文脈作りや意味付けをしっかり考え込んでくれるところにアルゴナビスプロジェクトへの信頼を感じているので、リアルバンドのフロントマンである小笠原さんが常にそれを意識されてることがうれしい。

 ワンマンツアーを経てどっしりとしたバンド力を備えたGYROAXIAだからこそ、今回のブシロックにおいて「ロックバンド」として正攻法に音で戦い、MCでも新しい試みが素敵に響いたんじゃないかと勝手に思う。キャラクターを背負うコンテンツだからこそ、メンバーのみんながあんなに破顔しながら演奏する姿を見れることは本当にまれなことで。これまで積み重ねてきた悔しい想いも嬉しい想いも、経験も、全ての出来事がきっと繋がっている。ここまで彼らと一緒に走ってきたという想いを勝手に持っているため、心から楽しんで演奏する真一さんとGYROAXIAメンバーのみんなを見れたことが嬉しくて、それだけで来て良かったと思える日だった。きっと今後もGYROAXIAの快進撃は続いていく。彼らはそんな確信を常に抱かせてくれるバンドなのだ。

 ありがとうGYROAXIA。

 これからも、よろしくどうぞ!
 (今夏のツアーも楽しみだね!)

・・・


 

 2年連続で富士山を見ることを忘れたのでお土産でカバーしようとする筆者。富士急ハイランドに行って富士山を見ずに帰ってくる人なんているのでしょうか……(少なくともここに1人)。配信で富士山が映ってて良かった

劇場版アルゴナビスAXIA

【4・5回目】

映画は1日に何回観ても別にいいのだと気が付いたので続けて見た。

・那由多と結人が対峙するシーンにおいて瞳の赤と青が印象的に演出されていてGYROAXIAとArgonavisの存在を感じる。「だからバンドを作って」「今もやってる」という台詞はナビステ2で描かれた結人とArgonavisの逡巡を見たからこそ、心により響いて届く。その声の力強さに、結人を演じる日向大輔さんのバンドにかける想いすら乗っかっているように感じて泣けてしまう。

・人物の心の揺らぎが、瞳のハイライトの揺れによって明確な意味を持って表現されているところが好き。劇中の那由多は沈黙と激昂で態度を表明するけれど、前述の表現によって瞳が雄弁に語っている。賢汰の「自分でも不思議だ。こんなに簡単に気持ちが揺らぐなんてな」という台詞を受け、賢汰には何も反応を返さず見送り、那由多は1人になってから咳き込んで倒れる。賢汰の台詞を回想した後も同様に瞳が揺れていて、何があっても自分を信じてついてくると思っていた賢汰が発した言葉に那由多の心に動揺が走ったことが瞳からも確かに伝わってくる。

・礼音の那由多に対する関わり方が終始、「同い年のバンドメンバー」に対する態度であることが良い。

・リアルライブである「火花散ル」の会場だったZepp札幌を舞台に、様々な局面を乗り越えた新生GYROAXIAのライブで物語が締めくくられるラストがとても嬉しい。あの時Zepp札幌で感じた「GYROAXIAは自分にとって白い光だ」という想いが、今また赤い炎によって塗り替えられる。今度は映画館のスクリーンで観るライブだけれど、ああまた時を経て景色を更新してくれるんだと嬉しくなる。GYROAXIAが歌い続けてくれる限り、想い出はずっと更新されていく。

・人間にはそれがたとえ他人のものであっても、才能が正しい場所で正しく開花することへの欲求があり、叶えられた時に充足感を感じるのかもしれない。

・那由多に共感している。ずっと。

 

2023.4.10記

劇場版アルゴナビスAXIA

【3回目】

見た。

2週間ぶりに観るAXIA、また泣きながら映画館を後にすることに……。

・賢汰の「遅かったな」と那由多の「いつもの倍走ったからこの時間になっただけだ」の対比が美しく、2人がそれぞれに抱えたものの雪融けを表情から感じられて嬉しい。2人の間にしか通じない文脈を感じる。大きく遠回りをしたが那由多はあるべき場所へ帰ってきた。

・航海から賢汰へ、結人から那由多へ。それぞれ過去の確執がある相手へ助け舟を出す重要なシーンであり、同時にGYROAXIAの当事者2人が抱える「迷い」や「逃げ」の気持ちへ切り込むシーンである。それを可能にするのはいつも迷いながら、しかしそこから目を逸らさずに進み続けるArgonavisの両輪の2人だからなんだろうな。GYROAXIAの危機に集合したり、説得に向かい、対峙するArgonavis。立ち位置的にはライバルバンド同士であるが、もはや朋友のようである。

・那由多がうなされて悪夢から目覚めるシーンが何度かあるけれど、那由多は何年間、何度それを繰り返してきたのだろうか。賢汰はそれを目撃したことはあるのだろうか。那由多が置かれている心境を慮るばかり。

・ライブハウスでのRagnarök歌唱シーンは通過儀礼に対して那由多がまず負けるシーンであるが、那由多への精神的負荷が高すぎて「毛利さん」と思わざるを得ないし、作中の役柄においてはセッティングした賢汰のスパルタ加減に想いを馳せざるを得ない。航海の励ましを受けて取った行動がこのセッティングである。那由多の精神状態を慮ざるを得ず、父と再会したシーンで那由多が倒れず宣戦布告できた精神力はすごいと率直に思う。

・Ragnarök歌唱シーンで蓮の顔が終始見えていない演出が良い。トラウマとはトラウマを植え付けられた側の心の中に生まれている現象だ。

・那由多にとって恐怖の象徴であったRagnarökは、蓮にとってはありのままを肯定される想い出深い大切な曲でもある。才能がある者に感応していたのではという考えがふと頭をよぎり、そんな残酷な話はないと首を振った。本当は「音楽」の象徴のような曲なんだと思う。純度が高すぎて、それが薬になる者もいれば、毒になる者もいる。そんな曲だと思う。

・「憎しみからは何も生まれない」。作中アニメであるスターファイブの台詞を受けた蓮の主張である。換言すると憎しみの渦中にありながらも人の心を振るわせる曲を作る那由多の才能はいかばかりだろうか。枷を付けられてなお溢れ出る才能。バンドや音楽をもっと信じてほしいと伝える蓮の言葉に「もっと自分を信じてほしい」と付け加えたくなる。早くに才能を見抜き、支えようとした賢汰に感謝したくなる。

・周囲にいる様々な登場人物の言動に対してどれもこれも素直に影響を受け、動揺し、表情を歪ませる那由多に人間らしさを感じて愛しくなる。那由多の心を動揺させるほど、パワーを持って伝え続ける人物が彼の周りにいるということでもあるのだと思う。

・那由多は克己した。2回目のRagnarök歌唱終わりに彼が勝利を確信したように、バンドメンバーが確かなものを感じたように笑っている姿が嬉しい。

・過去の憎しみから解放された彼はまた「今ここ」を生きる。蓮もバンドメンバーも、いつだって那由多を「今」に立たせていてほしい。「今」の那由多はRagnarökを聴いてどんな感情を抱くだろうか?願わくば、その傷さえも意味にして、生き様を歌に乗せ続けてほしい。

 3回目の雑感でした。

 

2023.4.8記

劇場版アルゴナビスAXIA

【2回目】

 観た。

 GYROAXIAのメンバーは旭那由多の翼であり、AXIAはその翼に那由多の血液が行き渡る過程を描いた物語だったのかもしれない。翼に血管を通す、痛みを強く伴う過程を描いた物語。それが2回目にAXIAを鑑賞した自分の直感だった。

 那由多の目指す通りの音を奏でることを必要条件として走ってきたメンバーが、各々の自我を持ってなお那由多と同じ指向性をもって彼、ひいてはGYROAXIAの音楽を実現する。相互に循環する意識、一心同体となったGYROAXIA。これがGYROAXIAというバンドの完成形なのではないか。

 血の通った自分の翼を「代えのきく道具」と見做す人はいるだろうか?答えは否である。蝋ではない本物の翼を得た那由多。自由な身体を得た那由多は、GYROAXIAはきっとどこまでも羽ばたいていける。AXIAを経てGYROAXIAは真の意味でバンドとなった。伝わり切っている感じが全くしないが、私が公開初日に感じた仲間感の内訳はこのようなものである。

 AXIAの物語の中で、那由多は思い通りにならない心と身体に苛立ち、あがき、もがく。作中ではバンドメンバーが那由多に「なぜバンドにこだわるか」を問う。問われた那由多もまた「なぜバンドにこだわるか」、真の意味での答えをもっているわけではないように見えた。

 賢汰もまた、今作で痛みを経験する。これまで盲目的に那由多を崇拝し、那由多の音楽を世界に知らしめることに腐心してきた彼に初めて痛みが走る展開が待っている。それはさながら母子分離の痛みのようであった。

 終盤に向けて心に降りてきた冒頭のメッセージに確信を覚えるたびに、また涙が流れてくる。AXIAの物語から伝わってくる、生まれる際の痛み、そこから芽吹く自我、その上で強く希求するものこそが真に彼が欲しているものだった。自我が芽生えた賢汰が求めるからこそ、彼の想いにはこれまでより一層の価値が生じる。

 賢汰の言う「遅かったな」は「お帰り」の意だと感じた。ナビステ2の航海と賢汰のシーンで出た「先に行って待ってるぞ」という台詞。賢汰の優しさの種類は「待つ」「見守る」といった類のものだ。献身の人だと感じる。

 

2023.3.25記